人口500万人を超える同国最大の都市シドニーや、同じく500万人規模を誇るメルボルンに比べて、キャンベラの知名度や規模は決して大きくありません。なぜ、この比較的小さな内陸の都市が、一国の首都という重要な役割を担うことになったのでしょうか。
その背景には、オーストラリアという国家の成り立ちに深く関わる、シドニーとメルボルンの100年以上にわたる熾烈なライバル関係がありました。この記事では、その歴史的な経緯を紐解きながら、キャンベラが首都に選ばれた理由、そして計画都市キャンベラの魅力について、詳しく解説していきます。
オーストラリアの首都はどこ?多くの人が抱く大きな誤解
まず、オーストラリアの主要都市と首都の関係について、基本情報を整理しておきましょう。
経済と観光の中心「シドニー」
シドニーは、1788年にイギリスからの最初の移民船団が上陸した、オーストラリア開拓の出発点です。現在では人口530万人以上を抱える国内最大の都市であり、国際的な金融センターとしてオーストラリア経済を牽引しています。
シドニー・オペラハウスやハーバーブリッジといった世界的に有名なランドマークがあり、観光地としての魅力も圧倒的です。まさにオーストラリアの「顔」ともいえる存在でしょう。
文化と芸術の都「メルボルン」
一方のメルボルンは、人口約510万人を誇るオーストラリア第2の都市です。「世界で最も住みやすい都市ランキング」の常連であり、ヨーロッパ風の美しい街並み、豊かなカフェ文化、ストリートアート、スポーツイベントで知られています。ビクトリア州の州都として独自の文化を育み、シドニーと並び立つ大都市圏を形成しています。
政治・行政の心臓部「キャンベラ」
そして、首都キャンベラ。シドニーから南西に約280km、メルボルンから北東に約660kmの内陸部に位置します。人口は約47万人(2023年時点)と、シドニーやメルボルンの10分の1にも満たない規模です。しかし、ここには国会議事堂、最高裁判所、各国の大使館といった国家の中枢機能が集積しており、オーストラリアの政治・行政を動かす心臓部となっています。
これほどまでに対照的な都市が、なぜこのような役割分担になったのでしょうか。その答えは、19世紀のゴールドラッシュ時代にまで遡ります。
なぜキャンベラが首都に?鍵は2大都市の100年以上にわたるライバル関係

キャンベラが首都になった直接の理由は、シドニーとメルボルンのどちらか一方を首都に定めることができなかったからです。その根底には、お互いを強く意識し、競い合ってきた両都市のプライドと歴史がありました。
発端はゴールドラッシュ!対立の始まり
19世紀半ば、メルボルンが位置するビクトリア州で巨大な金鉱が発見されると、「ゴールドラッシュ」が巻き起こりました。世界中から一攫千金を夢見る人々が殺到し、メルボルンは急速に富を蓄え、人口も急増。瞬く間にオーストラリアで最も豊かで大きな都市へと成長し、一時は「素晴らしいメルボルン(Marvelous Melbourne)」と称賛されるほどの繁栄を極めました。
これに黙っていなかったのが、オーストラリア開拓の始祖としての自負を持つシドニーです。経済の中心地の座を奪われたシドニーは、メルボルンへの対抗意識を燃やし、両都市はインフラ整備、文化施設、建築物の豪華さなど、あらゆる面で競い合うようになりました。この時から、両者のライバル関係は決定的なものとなったのです。
首都をめぐる熾烈な綱引き「どちらも譲れない!」
1901年、オーストラリアの6つの植民地が統合され、オーストラリア連邦が誕生します。新しい国家には、新しい首都が必要でした。しかし、首都をどこに置くかという問題で、シドニーとメルボルンはまたしても激しく対立します。
- シドニーの主張:「我こそがオーストラリア最初の都市であり、歴史的正統性がある!」
- メルボルンの主張:「我こそが当時最も繁栄している都市であり、首都にふさわしい!」
両都市の代表者たちは一歩も譲らず、議論は完全に紛糾。このままでは、新しい国家の船出が危ぶまれる事態にまで発展しました。
妥協の産物としての「新首都建設」という決断
この膠着状態を打破するために、連邦政府は驚くべき妥協案を提示します。それは、**「シドニーとメルボルンのどちらでもない、全く新しい場所に、ゼロから首都を建設する」**というものでした。
これは、両都市のプライドを保つための、まさに苦肉の策でした。この決定はオーストラリア憲法にも盛り込まれ、首都選定に向けた具体的なプロセスがスタートすることになります。
首都キャンベラ誕生までの道のり
新しい首都を建設するという壮大なプロジェクトは、いくつかの厳格な条件のもとで進められました。
首都選定の厳しい条件とは?
新しい首都の場所は、ただの中間地点であれば良いというわけではありませんでした。憲法で定められた主な条件は以下の通りです。
- 場所:ニューサウスウェールズ州内(シドニーの属する州)に置くこと。
- 距離:シドニーから100マイル(約160km)以上離れていること。
- 環境:十分な水資源があり、快適な気候であること。
シドニーの州内に置くことでシドニー側の顔を立てつつ、一定の距離を置くことでメルボルン側にも配慮するという、絶妙なバランス感覚が求められました。
数々の候補地から選ばれた「キャンベラ」
測量士チャールズ・スクリブナーの主導のもと、ヤス、ボンバラ、ダルゲティ、オレンジなど、多くの候補地が調査されました。そして1908年、最終的に選ばれたのが、モロングロ川が流れる広大な石灰岩の平原、「キャンベラ」でした。
「キャンベラ」という名前は、この地域に古くから住む先住民アボリジニの言葉で「集いの場所(Meeting Place)」を意味すると言われています。奇しくも、ライバル都市の対立を収めるために選ばれた首都に、ぴったりの名前だったのです。
天才建築家が描いた理想の都市計画
首都の場所が決まると、次にその都市デザインを決める国際コンペが開催されました。そして137もの応募の中から選ばれたのが、アメリカ人建築家ウォルター・バーリー・グリフィンとその妻マリオン・マホーニー・グリフィンの案でした。
彼らの計画は、キャンベラの自然の地形を巧みに活かした、壮大かつ幾何学的なものでした。
- グリフィン湖の創設:モロングロ川を堰き止めて巨大な人工湖「グリフィン湖」を造り、都市の中心に据える。
- 2つの軸線:国会議事堂を頂点とする「ランド・アクシス(水の軸)」と、市街地を貫く「ウォーター・アクシス(土地の軸)」を設定。
- 幾何学的な道路網:主要な丘を結ぶように三角形の道路網を配置し、その内側に放射状および環状の道路を整備する。
この計画に基づき、キャンベラは単なる妥協の産物ではなく、**「庭園都市(Garden City)」**の理想を体現した、世界でも類を見ない美しい計画都市として建設されることになったのです。
1927年、ついに首都機能が移転
首都建設は第一次世界大戦や資金難で遅れましたが、着実に進められました。そして1927年5月9日、ついに仮国会議事堂が開設され、メルボルン(1901年から1927年まで暫定首都の役割を担っていた)からキャンベラへ、正式に首都機能が移転しました。シドニーとメルボルンの長い首都争いに、ようやく終止符が打たれた瞬間でした。
首都キャンベラの現在と魅力

こうして誕生したキャンベラは、今ではオーストラリアの政治・行政を支える静かで落ち着いた都市として独自の発展を遂げています。
- 政治・行政の中心地:新国会議事堂をはじめ、オーストラリア高等裁判所、各省庁、そして100を超える国々の大使館が集まる外交の舞台でもあります。
- 文化と知性の集積地:オーストラリア国立博物館、オーストラリア国立美術館、戦争記念館など、国の歴史と文化を伝える重要な施設が集中しています。また、名門オーストラリア国立大学(ANU)があり、学術都市としての一面も持っています。
- 豊かな自然と美しい街並み:グリフィンの計画通り、広大な公園や緑地が都市に溶け込み、四季折々の美しい景観を楽しむことができます。特に春のフロリアード(花祭り)は有名です。
- 「退屈な街」はもう古い?:かつては「政治だけの退屈な街」と揶揄されることもありましたが、近年はおしゃれなカフェやレストラン、ブティックが増え、活気ある一面も見せています。
まとめ:キャンベラが首都である理由は、オーストラリアの歴史そのもの
シドニーでもメルボルンでもなく、人口約40万人のキャンベラがオーストラリアの首都である理由。それは、国の成り立ちにおける2大都市の激しいライバル関係が生んだ、歴史的な妥協の産物でした。
しかし、キャンベラは単なる中間地点として選ばれたわけではありません。天才建築家の壮大なビジョンに基づき、理想の首都としてゼロから創造された、世界でも稀有な美しい計画都市です。
キャンベラの歴史を知ることは、オーストラリアという国が、いかにして多様な地域の対立を乗り越え、一つの連邦国家としてまとまっていったかを理解することに繋がります。もしオーストラリアを訪れる機会があれば、シドニーやメルボルンだけでなく、首都キャンベラにも足を運んでみてください。整然とした街並みと豊かな緑の中に、この国の知られざる物語が息づいているのを感じられるはずです。