「シオタラン」――味気ない、は「塩がない」
ハンガリー語で「sótalan(シオタラン)」という言葉があります。分解すると「só(塩)」+「-talan(〜がない)」、つまり文字通りの意味は「塩がない」「塩味が足りない」です。レストランでスープの味が薄ければ、まさにその状態は「シオタラン」です。
しかし、この言葉の真の面白さは、その比喩的な用法にあります。例えば、面白みのない冗談、退屈な映画、情熱を感じさせない人物、あるいは何の変哲もないデザイン。これら全てが、ハンガリー人の感性にかかれば「シオタラン」と評されるのです。この用法は、英語の「bland」や「insipid」が持つ「味気ない」という意味合いに近いですが、「シオタラン」にはより強く「本質的な何かが欠けている」というニュアンスが伴います。
単なる物理的な塩分の欠如が、なぜ「魅力がない」「生気がない」「魂が抜けている」といった、精神的な物足りなさの代名詞となり得たのでしょうか。その答えは、ハンガリーという国の、塩辛く、時に憂いを帯び、そして情熱的に煮詰められた歴史と文化の中に隠されています。
歴史のるつぼが生んだ、孤高の言語と精神
「シオタラン」の背景を理解するには、まずハンガリーという国の特異な立ち位置を知る必要があります。ハンガリー人の祖先であるマジャル人は、9世紀にアジアのウラル山脈方面から、ヨーロッパ中央のカルパチア盆地へとやってきた騎馬民族です。周囲をドイツ系、スラブ系、ラテン系のインド・ヨーロッパ語族の民に囲まれながら、彼らは全く系統の異なるウラル語族の言語、ハンガリー語を、1000年以上にわたって守り抜いてきました。
この言語的な「孤立」は、ハンガリー人に強い自己認識と、どこか独特の憂いを帯びた国民性を与えたと言われます。さらに、その地理的な位置から、常に大国の間で翻弄され続けてきました。モンゴル帝国の侵攻に始まり、オスマン・トルコによる150年にもわたる支配、そしてハプスブルク家のオーストリア=ハンガリー帝国への編入。特に、帝国の時代には首都ブダペストが「ドナウの真珠」と謳われる華やかな文化を花開かせた一方で、常に支配下にあるという複雑な状況が続きました。
そして、第一次世界大戦後の1920年、トリアノン条約によって、ハンガリーは国土の3分の2と人口の半分以上を失うという、国家的なトラウマを経験します。この絶え間ない苦難と喪失の歴史が、不屈の精神と、同時に人生の悲哀を知る深い感受性を育んだのです。
味の記憶――歴史が煮込んだハンガリーの食卓
「シオタラン」がこれほどネガティブな意味合いを帯びる直接的な理由は、ハンガリーの食文化にあります。ハンガリー料理と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、鮮やかな赤色と豊かな風味を持つスパイス、パプリカでしょう。
牛肉と野菜をパプリカで煮込んだシチュー「グヤーシュ(Gulyás)」は、元々カルパチア平原の羊飼いたちが、屋外で大きな鍋(ボグラーチ)を火にかけ、あり合わせの材料で作った素朴な料理でした。厳しい自然の中で働く彼らにとって、塩とパプリカを効かせた熱い煮込み料理は、体を温め、命をつなぐための知恵そのものだったのです。
このパプリカは、16世紀から17世紀にかけてハンガリーを支配したオスマン・トルコによってもたらされたものです。支配という「塩辛い」歴史の記憶は、皮肉にもハンガリーの食卓を「味気なくない」ものにしました。トルコ人は、パプリカだけでなく、様々な香辛料やコーヒー、そして豊かな食の習慣をハンガリーに残しました。こうして、遊牧民時代のシンプルな塩と肉の料理から、多様なスパイスとハーブを駆使する、複雑で深みのある料理文化が発展したのです。
ハンガリー料理の豊かさを支えるのは、パプリカだけではありません。豚の脂であるラード(zsír)と、発酵クリームであるサワークリーム(tejföl)もまた、多くの料理にコクと深みを与えるために欠かせない存在です。これらの脂肪分が、パプリカや他のスパイスと一体となり、濃厚で満足感の高い、ハンガリー料理独特の味わいを生み出します。
味が濃いめで、しっかりとした輪郭を持つ料理が好まれるこの国において、「塩が足りない」ことは、単に味が薄いという以上に、料理が持つべき魂や生命力が欠如している状態を意味するのです。家庭に客を招けば、主人は「シオタランじゃないかい?」と客に尋ねます。それは「口に合いますか?」という問いであると同時に、「私の歓迎の気持ちは、あなたに十分に伝わっていますか?」という、心遣いの表れでもあるのです。
言葉遊びに宿る、ハンガリー人のエスプリ
「シオタラン」のように、ハンガリー語には、その国民性を映し出すユニークでウィットに富んだ表現が数多く存在します。
- Fejére nőtt a répa (頭にカブが育った) 混乱して頭の中がごちゃごちゃな状態を指します。思考の畑が荒れ放題になり、カブが勝手に生えてきてしまった、という農耕民族らしいユーモアが感じられます。
- Lyukas a tenyere (手のひらに穴が開いている) 浪費家でお金が貯まらない人のことです。お金を掴んでも、その穴から全てこぼれ落ちてしまうという、万国共通のため息が聞こえてきそうです。
- Bagoly mondja verébnek, hogy nagyfejű (フクロウがスズメに、頭が大きいと言う) 日本の「目糞鼻糞を笑う」にあたる諺です。自分の方がよほど大きな頭を持つフクロウが、スズメの頭の大きさを指摘するという、皮肉と自己省察の精神に満ちた表現です。
- Miért itatod az egereket? (なぜネズミに水をやっているんだ?) 「どうして泣いているの?」という意味の、非常に詩的な表現です。涙が床にこぼれ、それをネズミが飲んでいる、という情景を思い浮かべさせます。悲しい状況にも、どこか物語のような視点を持ち込むハンガリー人らしい感性が表れています。
これらの言葉は、単なる慣用句ではありません。それは、ハンガリー人が日々の暮らしの中で培ってきた知恵であり、物事を斜めから見るユーモアのセンスであり、そして自らの歴史と文化に対する深い洞察の表れなのです。
まとめ:「シオタラン」の対極にある、豊かな人生とは
「シオタラン(塩がない)」という一つの言葉。私たちは、その言葉を入り口に、ハンガリーの孤高の言語、大国に翻弄された歴史、そして異文化の流入によって豊かになった食文化を旅してきました。
幾度となく国土を蹂躙(じゅうりん)され、そのたびに不屈の精神で立ち上がってきた歴史。周囲を異民族に囲まれながらも、独自の言語と文化を守り抜いてきた誇り。そして、支配者がもたらした食文化さえも自らの血肉とし、より豊かで深みのある味覚を育んできたたくましさ。これら全てが、「シオタリー(塩味がある)」な状態を尊び、「シオタラン」な状態を嫌うという、彼らの価値観を形成しているのです。
この言葉が私たちに教えてくれるのは、ハンガリーの人々が、料理においても、人間関係においても、そして人生そのものにおいても、「深み」「豊かさ」「情熱」といった「塩味」を何よりも大切にしているという事実です。味がなければ、どんな高級な食材も意味をなさない。それと同じように、人生に情熱や知性、ユーモアといった「塩」がなければ、それはただ時間が過ぎるだけの「シオタラン」なものになってしまう。
言語は、単なるコミュニケーションの道具ではありません。それは、一つの民族が数千年かけて築き上げてきた、世界を見るための「窓」であり、価値観そのものです。「シオタラン」という窓を通してハンガリーを覗くとき、私たちは、彼らの魂のありように触れることができるのです。そして同時に、自らの日常を振り返るきっかけをも与えてくれます。今日のあなたの人生は、十分に「塩味」が効いているでしょうか?