バールレは2つの国、2つの自治体からなる町
バールレは、オランダ南部とベルギー北部の国境付近にあります。
ただし、一般的な国境都市のように、一本の線を挟んで両国の町が向かい合っているわけではありません。
バールレには、次の2つの自治体が入り組んで存在します。
| 自治体 | 所属国 | 特徴 |
|---|---|---|
| バールレ=ナッサウ | オランダ | 町の大部分を構成するオランダ側自治体 |
| バールレ=ヘルトフ | ベルギー | オランダ領内に多数の飛び地を持つベルギー側自治体 |
ベルギーのバールレ=ヘルトフ自治体も、バールレは単純な国境の町ではなく、合計30の飛び地からなると説明しています。バールレ=ヘルトフ自治体
ベルギー領22か所とオランダ領8か所
バールレにある30の飛び地の内訳は、次のようになっています。
- オランダ領内にあるベルギーの飛び地:22か所
- ベルギー領内またはベルギーの飛び地内にあるオランダ領:8か所
ここで話をさらに複雑にするのが、8か所あるオランダ領の位置です。
そのうち7か所は、オランダ国内にあるベルギーの大きな飛び地の中にあります。
構造を簡略化すると、次のようになります。
オランダ領
└ ベルギーの飛び地
└ オランダの飛び地
「飛び地の中にある飛び地」は、一般に二重飛び地や対飛び地と呼ばれます。
残る1か所のオランダ領は、通常のベルギー領内にあります。ベルギー側自治体の公式説明でも、ベルギーの2つの大きな飛び地の中に7つのオランダ領があり、別にベルギー本土内に1つのオランダ領があることが確認できます。
そもそも飛び地とは?
飛び地とは、国や自治体の主要部分から離れ、ほかの地域に囲まれている領域です。
バールレのベルギー領を例にすると、ベルギーに属していながら、その周囲をオランダ領に完全に囲まれています。
「バールレは国境線の上にある」と考えると、実際の構造を理解しにくくなります。町の中にベルギー領の島が点在し、その一部にはさらにオランダ領の島が浮かんでいる、と考えた方が近いでしょう。
海に浮かぶ島ではなく、土地の所有区分が作った地理的な島です。
国境は道路や住宅の中も通る
バールレの国境は、森や川だけを通っているわけではありません。
道路、歩道、駐車場、庭、商店、住宅の中も横切っています。市街地では、特殊な舗石や道路上の金属プレートによって国境線が見えるようになっています。バールレ共同観光局
食卓の一方がベルギーで、反対側がオランダという建物もあります。
町を歩いている人は、出入国審査を受けることなく国境線を何度もまたぎます。普段は国境を越えたことに気付かない場所でも、道路上の表示を見ると所属国が変わっていることが分かります。
家の住所は「玄関」がある国で決まる
国境が建物を横切っている場合、その家はどちらの国に属するのでしょうか。
バールレでは、原則として玄関の位置によって建物を登録する国が決まります。
玄関がベルギー側にあればベルギーの住所、オランダ側にあればオランダの住所です。バールレ=ヘルトフ自治体も、国境が建物を横切っていても、玄関の場所が登録国を決めると案内しています。
家番号の表示には、それぞれの国の三色が使われているため、玄関を見るとどちらの国の住所なのか分かります。
玄関の中央を国境が通る家もある
バールレには、国境線が玄関の中央を通ることで知られる家があります。
この建物には、ベルギーの「2番」とオランダの「19番」という2つの家番号が付けられています。バールレ共同観光局
「玄関で国を決める」というルールだけでは一方を選べないため、2つの国の住所を持つ特別な例になりました。
始まりは1198年の土地取引
複雑な飛び地の原型は、中世の1198年に生まれました。
当時、ブラバント公アンリ1世とブレダ領主の間で、領地をめぐる取引が行われます。
ブレダ領主には広い土地が与えられましたが、ブラバント公は、すでに家臣へ貸し与えていた土地や耕作されていた土地などを自分の支配下に残しました。
土地がまとまった形で分けられず、区画ごとに異なる領主へ属する状態になったのです。
この区分から、のちに次の2地域が生まれました。
- ブラバント公に属するバールレ=ヘルトフ
- ナッサウ家に継承されたバールレ=ナッサウ
「ヘルトフ」はオランダ語で「公爵」、「ナッサウ」は領地を継承したナッサウ家に由来します。バールレ共同観光局の歴史資料では、1198年の領地取引が現在の飛び地の基礎になったと説明しています。
中世の土地境界が国境になった
当初の区分は、現在のようなベルギーとオランダの国境ではありませんでした。
転機となったのは1648年です。八十年戦争を終結させたミュンスター条約によって、北部ネーデルラントと南部ネーデルラントが別々の政治領域になりました。
バールレ=ナッサウは北側、バールレ=ヘルトフは南側へ属します。中世の領地境界が、国際的な境界へ変わったのです。
1830年にベルギーがオランダから独立し、1843年に両国の国境を確定する作業が行われました。
しかし、バールレ周辺の土地を一本の境界線で分けることはできませんでした。そのため、どの区画がどちらの自治体に属するかを一筆ずつ記録する方法が採られます。
境界の整理はその後も続き、最後の飛び地境界が正式な国境として確定したのは1995年です。
なぜ国境を単純な線に直さなかったのか
地図だけを見れば、ベルギーとオランダで土地を交換し、国境を一本にまとめた方が簡単に思えます。
実際には、土地の所有、住民の住所、行政、歴史的権利などが区画ごとに結び付いています。国境を変更すれば、住民や自治体の所属も変わります。
両国は複雑な区分を消すのではなく、歴史的な土地境界を正式な国境として確定する道を選びました。
その結果、約800年前の領地分割が、現在のヨーロッパの町に残ることになったのです。
行政サービスは2つ、協力する仕組みもある
バールレには、ベルギーとオランダそれぞれの自治体があります。
共同観光局は、この町には2つの自治体、2人の首長、2つの学校があると説明しています。一方、住民の生活圏は一体であり、道路を境に暮らしが完全に分断されているわけではありません。
両自治体は、次のような分野で協力しています。
- 道路や自転車道
- 下水道
- 図書館や文化施設
- 消防・安全対策
2021年には、両自治体が法的な決定や協定を結べる共同組織も設けられました。バールレ=ナッサウ自治体
複雑な国境を維持するには、国境を越えた行政協力が日常的に欠かせないのです。
まとめ
ベルギーとオランダにまたがるバールレには、合計30の飛び地があります。
- オランダ領内のベルギー領:22か所
- ベルギー領またはベルギー飛び地内のオランダ領:8か所
- うち7か所は「飛び地の中の飛び地」
- 建物を国境が横切る場合、原則として玄関の位置で住所が決まる
- 飛び地の原型は1198年の土地取引から生まれた
- 最後の境界が正式に確定したのは1995年
バールレの国境は、地図上の珍しい模様というだけではありません。
中世の土地制度が現代まで残り、2つの国の住民と行政が協力しながら暮らす、今も使われている国境なのです。
記事クイズ
第1問
バールレにある飛び地は合計いくつでしょう?
- A. 8か所
- B. 15か所
- C. 22か所
- D. 30か所
答え:
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正解:D. 30か所
ベルギー領22か所とオランダ領8か所を合わせ、合計30か所です。
第2問
国境が住宅を横切る場合、原則として住所を決めるものは何でしょう?
- A. 寝室の位置
- B. 玄関の位置
- C. 建物の面積が大きい側
- D. 所有者が自由に選ぶ
答え:
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正解:B. 玄関の位置
玄関がベルギー側ならベルギー、オランダ側ならオランダの住所として登録されます。
第3問
バールレの飛び地の原型が生まれたとされる年はいつでしょう?
- A. 1198年
- B. 1648年
- C. 1843年
- D. 1995年
答え:
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正解:A. 1198年
中世の領地取引で土地が区画ごとに分けられたことが、現在の飛び地の出発点です。