水の王国と、その支配者
バングラデシュ南西部からインドにかけて、ガンジス、ブラマプトラ、メグナという三つの大河が作り出したデルタ地帯に、地球上で最大のマングローブ林「シュンドルボン」が横たわっています。その名は、この地に繁茂するマングローブの一種「スンダリの木」に由来し、「美しい森」を意味します。無数の水路が網の目のように大地を巡り、潮の満ち引きによって、その姿を刻一刻と変えるこの神秘的な森は、ユネスコ世界遺産にも登録された、生命の宝庫です。
この「水の王国」の頂点に君臨するのが、ベンガルトラです。彼らは、陸上のトラとは異なる、独自の進化を遂げてきました。強力な四肢で泥濘地を駆け、巧みに泳いで広大な川を渡り、時には魚やカニさえも捕食します。獲物となるシカやイノシシの密度が他の森林より低いため、彼らはより広大な縄張りを必要とします。その美しい縞模様は、マングローブの木漏れ日の中に完璧に溶け込み、彼らを神出鬼没の存在にしています。
この地域の人々にとって、トラは単なる猛獣ではありません。古くから伝わる信仰では、森の女神「ボンビビ」が、トラの姿をした森の悪魔「ダッキン・ライ」から人々を守ると信じられてきました。トラは、畏怖すべき自然の力の象徴であり、人々の生活と文化に深く織り込まれた存在なのです。バングラデシュの国獣であり、クリケット代表チームの愛称が「タイガース」であることからも分かる通り、彼らは国の力と誇りの象徴でもあります。
しかし、その王者の王国は今、静かに崩壊の危機に瀕しています。20世紀初頭には10万頭以上いたとされる野生のトラは、世界全体で4000頭以下にまで激減。ここシュンドルボンでも、2004年に440頭と推定された個体数が、2015年にはわずか106頭という衝撃的な数字にまで落ち込みました。最新の調査では114頭とわずかな回復が見られますが、依然として絶滅の淵にいることに変わりはありません。彼らの王国に、一体何が起きているのでしょうか。
四つの戦線
ベンガルトラへの脅威は、四つの戦線から同時に、そして複合的に迫っています。
第一の戦線:影の戦争(密猟) 最も直接的で残忍な脅威は、闇市場を潤すための密猟です。トラの美しい毛皮は富の象徴として、骨や内臓は伝統薬の原料として、法外な高値で取引されます。その背後には、国境を越えて暗躍する国際的な犯罪組織(シンジケート)の存在があります。貧困にあえぐ地域の住民を末端の実行役として雇い、巧妙な手口で法の網をくぐり抜けるのです。広大で複雑なシュンドルボンでは、武装した密猟者を追跡し、逮捕することは、森林レンジャーたちの命がけの任務となります。一つの密猟は、一頭のトラの命を奪うだけでなく、そのトラが担っていた繁殖の機会や、群れの社会構造をも破壊するのです。
第二の戦線:奪われる領土(生息地の破壊) 人間の活動域の拡大が、トラの領土をじわじわと奪っています。森林伐採、農地への転換、沿岸部のエビ養殖場の拡大。さらに、上流のインド側で建設されたダムが、シュンドルボンに流れ込む淡水の量を減少させ、森の塩性化を招いています。塩分濃度の上昇は、トラの飲み水を奪い、彼らの獲物であるシカなどが依存する植物の生育を阻害します。近年では、シュンドルボンの緩衝地帯で計画されている石炭火力発電所(ランパル発電所)が、大気汚染や水質汚濁を通じて、この繊細な生態系に致命的な影響を与えるのではないかと、国際的な論争を巻き起こしています。
第三の戦線:境界での紛争(人間との軋轢) 森が狭まるにつれ、トラと人間の距離は危険なほどに近づきました。森の恵みを求めて中に入る人々、特に「マワリ」と呼ばれる蜂蜜採集者や、「バワリ」と呼ばれる木こりたちは、常にトラとの遭遇の危険に晒されています。獲物を失ったトラが家畜を襲い、時には人間を襲う。愛する家族や貴重な財産を失った村人たちが、恐怖と怒りから報復としてトラを殺してしまう。この悲劇の連鎖は、保護活動における最も繊細で、困難な課題の一つです。人間とトラ、双方の生存を懸けたこの「境界紛争」は、日々深刻さを増しています。
第四の戦線:迫り来る大波(気候変動) そして、最も抗いがたく、広範囲に及ぶ脅威が、気候変動です。地球温暖化による海面上昇は、海抜の低いシュンドルボンの大地を、少しずつ、しかし確実に水没させようとしています。ある科学的な予測では、今後50年でシュンドルボンのトラの生息地のほぼ全てが失われる可能性があるとさえ指摘されています。さらに、気候変動はサイクロンをより強力で頻繁なものにします。2007年のサイクロン・シドルや2020年のサイクロン・アンファンは、森と、そこに住む人間、そしてトラ自身に壊滅的な被害をもたらしました。この脅威は、もはや一国や一地域の努力だけでは立ち向かえない、地球規模の課題なのです。
王を救うための反撃
しかし、人類はただ手をこまねいているわけではありません。森の王者を救うため、バングラデシュ政府、地域住民、そして国際社会が連携し、困難な反撃作戦を展開しています。
密猟という「影の戦争」に対しては、森林局のレンジャー部隊によるパトロールが強化されました。バングラデシュとインドが国境を越えて合同パトロールを行うなど、連携も進んでいます。ドローンによる上空からの監視や、GPSを用いたスマートパトロールシステムといった最新技術も導入され、監視網はより緻密になっています。
奪われゆく「領土」を守るため、地域住民が主体となったマングローブの植林活動が各地で行われ、失われた森の再生が進められています。また、開発計画に対しては、WWF(世界自然保護基金)などの国際NGOが科学的データに基づき、環境への影響を厳しく監視しています。
悲劇的な「境界での紛争」を解決するため、地域に根ざした取り組みが最も重要となります。トラの被害に遭った住民への補償制度を整備する一方、「ビレッジ・タイガー・レスポンス・チーム(VTRT)」が組織されています。このチームは、村に迷い込んだトラを安全に森へ追い返したり、興奮した村人たちをなだめたりと、トラと人間の間の緩衝材として重要な役割を果たしています。さらに、トラのいる森に入らずとも収入を得られる代替的な生計手段として、エコツーリズムや養蜂、カニの養殖などが奨励されています。
そして、これらの作戦の全てを支えるのが、科学の目です。森に設置された数百台の自動撮影カメラ(カメラトラップ)が、トラの姿を捉え、その縞模様(一頭一頭異なる、人間の指紋のようなもの)を識別することで、正確な個体数や分布を把握します。GPS首輪を装着したトラの追跡調査は、彼らの行動範囲や生態を解明し、より効果的な保護区の設計に繋がっています。
まとめ:未来へ、その咆哮を繋ぐために
バングラデシュの象徴であり、地球の宝でもあるベンガルトラの未来は、今、私たちの手の中にあります。彼らが直面する危機は、密猟という直接的な暴力から、気候変動という地球規模の課題まで、複雑かつ深刻です。
しかし、絶望だけではありません。現場で闘うレンジャーたち、トラとの共存の道を探る地域住民、彼らを支える世界中の支援、そして科学の力が、希望の光を灯しています。ベンガルトラを救う闘いは、単に一つの美しい種を守るというだけではありません。それは、シュンドルボンという唯一無二の生態系、そこに根ざした豊かな文化、そして何百万人もの人々の生活を守る闘いでもあるのです。その運命は、地球全体の生物多様性と、私たちの未来の持続可能性を占う試金石と言えるでしょう。
森の王者が、再びその威厳を取り戻し、水の王国に安息の日々が訪れるのか。その未来は、まだ誰にも分かりません。しかし、彼らの命を救うための闘いは、今この瞬間も、続いているのです。その力強い咆哮を、次の世代へと繋いでいくために。