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国境を越えた3千万人の声──国をもたない最大の民族・クルド人の現在

国境を越えた3千万人の声──国をもたない最大の民族・クルド人の現在

中東の険しい山岳地帯にまたがる「クルディスタン」に暮らす約3千万人のクルド人は、トルコ、イラク、シリア、イランという4つの国境線の下で生活を続けてきました。独自の言語・文化を守りながら、オスマン帝国崩壊後の分断、各国政府による同化・弾圧、そして武装闘争や自治権獲得への挑戦を繰り返し、その歴史は今なお進行中です。本記事では、クルド人の言語・文化的多様性から政治運動の軌跡、各国での扱いと国際社会の対応までを概観し、国家を持たない民族が直面する現実と未来への展望を解説します。

概要と人口

「クルド人」はトルコ、イラク、イラン、シリアの境界地帯を中心に居住する民族で、その総人口は一般に約3,000万~3,500万人と推定されます。これは国家を持たない民族集団としては世界最大規模とも言われ、各国にまたがる広大な「クルディスタン」と呼ばれる山岳地域が彼らの伝統的な故郷です。クルド人はインド・ヨーロッパ語族イラン語派のクルド語を母語とし、多くがイスラム教スンニ派(特にシャーフィイー法学派)を信仰しています。

主な居住地域と人口の割合(推定)

トルコ

クルド人はトルコの総人口の約20%を占め、約1,200万~1,500万人が居住します。トルコ南東部から東部にかけて伝統的居住地があり、近年はイスタンブールなど西部大都市にも多数移住しています。

イラク

イラク全人口の15~20%にあたる約600万~800万人が北部のクルド人自治区(クルディスタン地域)を中心に暮らしています。ドホーク、エルビル、スレイマニヤなど3州が自治政府の管轄下にあり、資源豊富なキルクークなど周辺地域にも多く居住します。

シリア

シリアでは内戦前の人口の約8~10%(約150万人前後)が北部に住み、ハサカ県やアレッポ県の一部などトルコ国境沿いに集中していました。一時はアサド政権により数万人規模で国籍を剥奪され無国籍状態に置かれるなどの差別も受けました。

イラン

イラン北西部にも全人口の約10%(およそ600万~800万人)のクルド人が暮らしています。クルディスタン州、ケルマンシャー州、西アゼルバイジャン州などイラク国境寄りの地域に多く、古くからイラン系王朝の下で半自治的に生活してきた歴史があります。

歴史的背景(オスマン帝国崩壊後~現代)

クルド人は第一次世界大戦後の中東再編で国家を持つ機会を目前にしながら、列強の思惑と新興国家の抵抗に翻弄されました。大戦後にオスマン帝国が敗北すると、1920年のセーヴル条約においてクルド人地域の独立が一旦は約束されます。しかしトルコ革命を経てムスタファ・ケマル・アタテュルクが条約履行を拒否し、1923年のローザンヌ条約でこの約束は削除されました。その結果、クルド人の居住地は新たに成立したトルコ共和国や英仏の委任統治領(イラク、シリア)に分割され、クルド人は各国で少数派として組み込まれることになります。統一国家が誕生しなかった最大の要因は、このように近代国家の国境線で民族が分断されたことにあります。 


各国に取り残されたクルド人は、20世紀を通じて自治や独立を求めて幾度も蜂起しました。トルコ領内では1920~30年代に反乱が相次ぎましたが(シャイフ・サイードの乱〔1925年〕、アララトの乱〔1930年〕等)、いずれも政府軍により鎮圧されています。第二次大戦後には、ソ連占領下のイラン北西部マハバードにおいてクルディスタン共和国が独立を宣言しました(1946年)が、これは約1年で崩壊しました。この短命な共和国の大統領となったカーズィー・ムハンマドはイラン・クルド民主党(KDPI)の創設者であり、軍事面を率いたムスタファ・バルザーニーはのちにイラクでクルド民主党(KDP)を率いていくことになります。

冷戦期にはクルド人の民族運動が各地で活発化しました。イラクではバルザーニー率いるKDPが1960年代から反政府武装闘争を行い、一時は自治政府樹立の約束を勝ち取るものの履行されず、1970~80年代にサダム・フセイン政権による苛烈な弾圧を受けました。ことに1988年の「アンファール作戦」では化学兵器が投入され、クルド人住民が大量虐殺される悲劇(ハラブジャ毒ガス攻撃など)が起きています。一方トルコでは、1978年に誕生したクルディスタン労働者党(PKK)が1984年から本格的な武装蜂起に踏み切り、南東部を中心に分離独立や自治を求めてトルコ政府との内戦状態に入りました。この紛争でこれまでに4万人以上が死亡したとされます。トルコ当局は1999年にPKK指導者アブドゥラ・オジャランを拘束し死刑判決を下しました(後に終身刑に減刑)。オジャラン逮捕後、一時は沈静化したクルド人闘争ですが、中東情勢の変化に伴い21世紀に入ってから再びクルド人の地位向上と自治拡大の機運が高まっていきます。 

湾岸戦争以降の展開: 1991年の湾岸戦争後、イラク北部でクルド人は米主導の保護下に事実上の自治権を獲得し、クルディスタン地域政府(KRG)が樹立されました。2003年のイラク戦争後にはイラク憲法で同地域の高度な自治が承認され、クルド人は一定の自己統治を享受しています。一方、2011年に始まった「アラブの春」はシリア内戦へ波及し、シリア北東部のクルド人勢力(民主連合党PYD)は紛争の混乱を突いて事実上の統治地域(ロジャヴァ)を確立しました。彼らはイスラム過激派組織ISIS(イスラム国)との戦いでアメリカの支援を受け、その軍事力と国際的な存在感を飛躍的に高めました。2014~2017年にかけてISISが駆逐されると、イラク・シリア両国のクルド人勢力は最大版図を獲得します。しかし2017年9月にイラクのKRGが強行した独立住民投票(賛成92%)は、周辺国と国際社会の猛反発を招き、イラク政府軍によるキルクーク奪還などクルド側の大きな後退を招きました。またトルコは依然としてシリアやイラクのクルド自治拡大に強く反対しており、2018年と2019年にはシリア北部に軍事侵攻してクルド人支配地域を一部制圧しています。2020年代に入っても中東各地でクルド人問題はくすぶり続けていますが、2025年5月にはPKKが武装闘争終結と組織解散を表明するなど、新たな局面も迎えつつあります。

言語と文化

クルド人は主にクルド語を話しますが、実際には3~4つの主要な方言(クルド語諸語)に分かれ相互理解が困難な場合もあります。代表的な方言として、トルコやシリアで話される北部クルド語(クルマンジー)、イラクやイランで話される中部クルド語(ソラニ)があり、他にも南部のフェイリ語やザザ語(ザザキ、しばしば独立言語とみなされる)などがあります。表記体系も地域により異なり、トルコ・シリアのクルド語はトルコ共和国の言語事情からラテン文字が主流である一方、イラク・イランのクルド語(ソラニ方言)はアラビア文字系のクルド文字を使用します。そのため綴りやアルファベットも統一されていません(例:トルコではクルド語固有の文字「Q, W, X」を含む人名登録が長年認められなかった経緯があります)。それでも当人たちは自らの話す言葉を共に「クルド語」と認識しており、言語は散在するクルド人共同体のアイデンティティを結ぶ重要な要素です。

宗教的には大多数がイスラム教スンニ派に属します。ただしトルコのクルド人にはシーア派系の一派アレヴィー(アレヴィ)教徒も相当数おり、イランやイラクのクルド人にも一部シーア派が存在します。さらにクルド人固有の少数宗教としてヤズィーディー(ヤジディ)教 や、イラン由来のヤルサン(アフレ・ハック)を信仰する集団もいます。ヤズィーディー教徒の多くはクルド人の一派と見なされ、2014年にはISISにより大量虐殺の標的にもなりました。その他、少数ではありますがキリスト教ユダヤ教の信徒もいます。このようにクルド人社会は内部に複数の宗教的・言語的多様性を抱えていますが、それぞれの集団を横断して「クルド人」という民族意識が共有されています。伝統文化の面では、春分の時期の新年祭「ノウルーズ」を共通して祝う習慣や、カラフルな民族衣装、ダブケと呼ばれる踊りの文化など、中東周辺諸民族と共通点を持ちつつ独自の文化遺産を維持していることも特筆されます。

政治的状況と独立運動

クルド人は長年にわたり、中東各国の中で政治的な自治権拡大や独立国家樹立を目指してさまざまな運動を展開してきました。ただしクルド人勢力は一枚岩ではなく、国・地域ごとに異なる組織が乱立し、相互対立も少なくありません。加えて、トルコ・イラン・イラクなど関係国政府は自国のクルド人運動を抑える一方で、隣国のクルド人組織を密かに支援し合うといった複雑な駆け引きを繰り広げてきました。その結果、クルド民族全体として統一した国家建設運動を展開することは難しく、各地域ごとに異なるアプローチが取られています。 

イラク北部では、クルディスタン地域政府(KRG)が半世紀近くにわたり自治権獲得と維持に成功してきました。KRGは1992年に発足した議会・政府を前身とし、2005年制定のイラク新憲法で正式に連邦構成体としての自治地域と認められています。現在のKRGは独自の大統領・首相の下、各省庁と議会、治安部隊(ペシュメルガ)を有し、対外的にも数多くの国や国際機関と直接協力関係を築いています。例えばエルビルには米露や欧州諸国の領事館が置かれ、日本も領事事務所を開設しています。KRGは事実上「国家」に近い統治機構を備えていますが、あくまでイラク共和国の枠内に留まっており、独立へのハードルは依然高いです。2017年にはKRGが独立住民投票を実施し圧倒的賛成票を得ましたが、イラク中央政府と周辺国の武力・経済的圧力に直面して結果を凍結せざるを得ませんでした。現在もKRGはイラク政府との間で、石油収入の配分や紛争地域(キルクークなど)の帰属を巡って綱引きを続けています。 

トルコでは、依然 クルド労働者党(PKK)が最大の政治勢力として存在感を持ちます。PKKは当初「北クルディスタン」と呼ぶトルコ国内クルド人地域の独立国家樹立を掲げましたが、近年は目標を軌道修正し、トルコからの分離独立ではなく自治やクルド人の権利拡大に重点を置くようになりました。トルコ政府はPKKを非合法のテロ組織とみなし、1980年代以降徹底した軍事弾圧を行っています。一時はエルドアン政権下でクルド語放送禁止の撤廃やオジャラン受刑者との和平協議(2012~2015年)など融和策も試みられましたが、和平交渉は決裂し2015年以降再び衝突が激化しました。2020年代に入ってもトルコ軍とPKKの戦闘は続いていましたが、2025年5月、長年武装闘争を指揮してきたオジャラン受刑者が組織解散を呼びかけ、PKKは武装解除と解散を宣言しました。これは40年にわたる紛争の大きな転機となる可能性がありますが、トルコ政府がクルド人の政治参加や言語・文化の権利保障にどこまで応じるかは依然不透明です。 

シリアでは、内戦の混乱の中で生まれたクルド人主体の自治政権(ロジャヴァ自治行政)が引き続き存続しています。シリア北東部のクルド人勢力(主力はPYDとその軍事部門YPG)は、独立国家の樹立ではなく シリア領内での自治権確立 を目指す立場を表明しています。彼らはISIS撃退の過程でシリア国土の約4分の1を支配下に置くことに成功し、この地域には豊富な石油資源や肥沃な農地、水源が含まれています。ロジャヴァ自治政権は独自の軍隊(シリア民主軍=SDF)と統治機構を整備し、クルド人だけでなくアラブ人や少数民族も包括する地域自治のモデルを掲げています。しかしトルコはこのクルド人支配地域をPKKの分派と見做して強く警戒し、2019年に米軍がシリア北部から撤退すると直ちに軍事侵攻を行いました。クルド人勢力はやむなくアサド政権と協調し一部地域をシリア政府軍に明け渡すなど苦渋の対応を取っています。シリア内戦の行方次第では、クルド人自治の行く末も不透明ですが、現状ではクルド人指導部は中央政府との交渉による自治継続を模索しています。 

イランのクルド人は、中東の中でも比較的動きが見えにくい存在ですが、潜在的な不満は大きいとされます。パフレヴィー朝時代からイラン政府は国内クルド人の自治要求を認めず、イスラム革命(1979年)直後にもクルド人蜂起を武力で鎮圧しました。現在もイラン人口の約10%を占めるクルド人が北西部に居住していますが、中央政府はいかなる分離運動も許容しない方針です。クルド人政党としてKDPIやコマラ(Komala)といった勢力が古くから活動していますが、公の政治参加は認められていません。2000年代以降、トルコPKKの影響を受けたPJAK(クルディスタン自由生活党)がイラン体制に対する武装闘争を開始し、イラン革命防衛隊との間で散発的な戦闘が起きました。イラン政府は2011年にPJAK掃討作戦を強化する方針を打ち出し、以降も情報機関による活動家の拘束や処刑が相次いでいます。人権団体によれば、イランのクルド人は他の宗教・民族少数派とともに体制側から制度的な差別を受けていると指摘されています。2022年にはイランでヒジャブ強制に抗議する全国的なデモが発生しましたが、その火種となった女性(マフサ・アミニ氏)はクルド人であり、抗議活動もクルド人居住地域から大きく盛り上がるなど、同国のクルド人問題が内政不安と絡み合っている現状も浮き彫りとなりました。

各国の政策と国際社会の対応

クルド人問題に対する各国政府および国際社会のスタンスは複雑です。基本的にトルコ、イラン、イラク、シリアの 領域内統合を重視する立場から、いずれの国も自国領土の分割につながるクルド人の独立は断固認めていません。むしろ隣国でクルド人が権利や自治を獲得する動きに対して敏感に反応し、自国内への波及を警戒する傾向があります。こうした利害の一致もあり、2017年のイラク・クルディスタン独立投票の際には 米露やサウジアラビアとイランといった対立する大国でさえ足並みを揃えて反対を表明しました。このように、クルド人の悲願である独立国家樹立は「世界中から反対される」状況にあります。 

トルコ政府は建国以来、「単一民族国家」理念の下でクルド人の同化政策を取ってきました。1920~30年代には「クルド人」という呼称自体を禁じ、「山岳トルコ人」と呼称する公式見解も取られました。クルド語の使用も長らく公的に禁止され、クルド人であることを示す地名や個人名も改名・改称の対象となりました。21世紀初頭にEU加盟交渉が始まると、人権改善圧力からトルコ政府は若干軟化し、公教育や放送でのクルド語使用解禁など譲歩も見られました。しかし依然として政治的権利の面では厳しく、クルド系政党の活動には弾圧が加えられることもあります。治安面でもPKK掃討作戦は国内外で継続中であり、トルコ軍はしばしば イラク領内のPKK拠点に越境攻撃 を行ってイラク政府やKRGから抗議を受けています。トルコはNATO加盟国の中で唯一、自国領内に戦火を抱える状態が長年続いており、この問題が欧米との関係にも影を落としています。例えばスウェーデン・フィンランドのNATO加盟交渉では、在欧クルド人活動家の扱いを巡ってトルコが反発し、加盟承認を遅らせる一因となりました。EUは公式にはPKKをテロ組織に指定しその武装闘争を非難する一方で、トルコ政府に対しては 「国内約1200万のクルド人にもっと権利を保障し、言語や文化を奨励するように」 と求めてもいます。トルコのEU加盟審査においてクルド人の人権状況は重要なチェック項目であり、改善なしには加盟交渉の進展は難しい情勢です。 

イラク中央政府は、建前上は憲法でクルド人自治区の地位を認めつつも、国内分裂を防ぐためクルド独立には断固反対です。2017年の住民投票直後、イラク議会と最高裁は投票を「違法」と断じ、クルド自治政府に結果の破棄を要求しました。加えて経済制裁や国境封鎖、軍事的圧力をかけ、一時はKRGの存立が危ぶまれる事態ともなりました。これによりKRGは独立を棚上げせざるを得ず、バグダッドとの対話路線に戻っています。イラク国内ではクルド人は大統領ポストを慣例的に担うなど政治参加もありますが、原油収入の配分や領土問題では依然緊張が残ります。国際的にも、周辺のトルコやイランのみならず アメリカや欧州諸国も一貫して「イラクの領土一体性支持」を表明しており、クルド独立への支援は得られていません。とはいえ欧米諸国はISIS掃討戦などで クルド人部隊(ペシュメルガ)の貢献を高く評価しており、軍事訓練や資金支援などを通じてKRGを事実上支援してきた経緯があります。米国主導の有志連合はISIS壊滅後も引き続きクルド自治政府との協力関係を維持し、イラク政府との橋渡しも模索しています。 

シリア政府は、内戦勃発前は国内クルド人に対し厳しい同化・抑圧政策を取ってきました。バアス党政権下ではクルド語教育の禁止やクルド人地区へのアラブ人移住政策(「アラブ・ベルト計画」)が実施され、約12万人ものクルド人がシリア国籍を剥奪され無国籍とされる事件も起きました。しかし2011年の反政府デモ以降、アサド政権は国内統制が及ばなくなった北部クルド人地域を黙認し、結果としてクルド人勢力の台頭を許します。現在、北東シリアの一部はクルド人主体の自治政権(北部・東部シリア自治行政)の下にあり、アサド政権も直接的には統治していません。もっともクルド人指導部自身、シリアからの分離独立は現実的でないと認識しており、シリア領内での自治保証を目標に掲げています。実際、クルド人勢力は将来的にダマスカス政府との政治交渉で自治を憲法上認めさせる道を模索しています。しかしトルコの介入や米軍の思惑も絡み、シリアのクルド問題は国際紛争の一部となっています。アメリカはクルド人主体のSDFを対ISIS戦のパートナーとして支援しましたが、自治独立の追求には同調しない態度を取り続けました。2019年に米軍がシリア北部から撤退するやトルコが侵攻した経緯に、クルド側は「米国による裏切り」と強く反発しています。シリアのクルド問題解決には、アサド政権・反体制派・クルド人・トルコ・米露と多くの当事者の合意が必要で、国際社会も依然明確な方策を示せていません。 

国際社会全般で見れば、 米欧も含め主要国はいずれもクルド独立国家の承認に否定的です。国際連合も「イラクやシリアの安定を損なう恐れがある」として2017年のクルド独立投票に反対し、領土一体性の維持を呼び掛けました。米国は冷戦期からイラクやシリアでクルド人を支援する場面がある一方で、自国の同盟国であるトルコの領土保全にも配慮し、公式には「クルド人の正当な権利は各国の枠内で保障されるべき」という立場を取っています。実際に米政府はイラク・クルディスタンの独立投票に反対し、中止を求めました。欧州連合(EU)諸国も概ね同様で、人道・人権の観点からクルド人難民支援や文化支援は行いつつも、政治的独立には賛同していません。むしろEU内にはトルコ出身のクルド人亡命者も多く、トルコとの関係ではPKK支援の有無がしばしば問題化しています。総じて、国際社会はクルド人問題に同情を示しつつも、中東の既存国境を変更する動きには慎重であり、クルド人の将来像については「各国の民主化と自治権拡大の中で解決を図るべきだ」とする声が主流です。クルド人側も現実的戦略として、すぐに独立国家を樹立するのではなく、まずは自らの言語・文化の権利や地域自治の確立を目指す方向へとシフトしつつあります。植民地支配や冷戦を経てもなお残るこの民族問題に、国際社会がどのように向き合うかが今後も問われ続けるでしょう。

クルド人は、3千万人という規模を持ちながらも国家に認められない不安定な立場にあります。しかし、言語や宗教の多様性を包摂しながら地域自治を実現してきた事例(イラク北部のKRGやシリア北東部のロジャヴァ)を見れば、独立国家ではなくとも「権利の確立」を通じて自己統治を追求する道が模索されていることが分かります。国際社会は既存の国境と安定維持を重視する一方で、クルド人の正当な権利保障の必要性も認めており、今後は各国の民主化や自治拡大の進捗がクルド人問題の鍵を握るでしょう。クルド人の歩みは、国家とは何か、民族のアイデンティティとは何かを問いかける普遍的なテーマでもあります。

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